ケータイのカメラ
カメラ付きケータイのさまざまな利用形態は、“あたらしい写真”ともいうべきものを生成しつつあります。ソンタグ(1977)が『写真論』で示唆したように、写真は「写真で見る」というあたらしい活動を実現させました。カメラが普及し、手軽に利用できるようになるとともに、「写真で見る」ことは、われわれのごく日常的な生活場面でもさほど特別な活動ではなくなりました。さらにいまでは、カメラ付きケータイがまちを歩く多くのひとの手に握られているのです。
カメラ付きケータイの普及や利用状況をふまえると、小さなカメラで切り取り、ケータイの画面で見るということ自体が、ひとつのあたらしい“ものの見方”を構成していく可能性があります。ふだんの生活のなかで手軽に写真を撮り、蓄積し、必要に応じて「ケータイで見る」ことは、自分の埋め込まれた社会的・文化的文脈を記録すること、あるいは記録が行われた状況を想起させることと密接に関連していると言えるでしょう。
ケータイのカメラで写された写真は、多くの場合サイズが小さい…。このサイズ(大体120×120ピクセル程度)そのものが、写真に付加されるあたらしい特性として理解することができます。小さな写真は、「インデックスプリント」(いわゆる「ベタ焼き」)や「サムネイル」としてなじみ深いものです。「サムネイル」は、複数の写真がある場合に一覧性を高めるのに役立ちますが、実際には「サムネイル」の背後には最終的な写真(オリジナルサイズの写真)があることが前提となっています。つまり、「サムネイル」は(サイズ・画質などをふくめ)プレビュー的な意味をもつ形態なのです。
それに対して、ケータイのカメラで写され、蓄積されていく写真は決してプレビュー用ではなく、オリジナルサイズが小さいのです。撮影や送信の手軽さを実現するために、小さくて軽いデータとしての写真が意味をもつからです。この小さいサイズの写真は、「ケータイで見る」という行為を性格づけます。われわれがケータイのカメラで写真を撮る際には、小さな矩形のフレームに、何をどのように収めるかという意味でのフォーカスの重要性を再認識させるとともに、写した写真を保存するのか、送信するのか、あるいは削除するのかという即時即興的な判断をせまることになります。
また、「ケータイで見る」際には、矩形に切り取られた写真ばかりではなく、その周辺(つまりはフレームの外)への注視を、従来の写真以上に喚起するのではないでしょうか。つまり、ケータイによる“あたらしい写真”は、それ自体がコンパクトで比較的自由に流通するということにくわえ、小さいこと自体が、われわれの意味の探索に影響をおよぼしうると考えられます。写真は、写っている事柄から写っていない事柄を想起させ、われわれのイマジネーションを刺激します。また、写っていない事柄に想いをめぐらせることによって、われわれはその写真を撮影した人物について洞察をくわえることもできます。ケータイのカメラで写された小さな写真は、こうした写真の本来の特質をより際立たせるのではないかと思います。
(オリジナルは、昨年12月のk-timesのワークショップ後に書いた原稿です)
