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2003年06月29日

 ケータイのカメラ

 カメラ付きケータイのさまざまな利用形態は、“あたらしい写真”ともいうべきものを生成しつつあります。ソンタグ(1977)が『写真論』で示唆したように、写真は「写真で見る」というあたらしい活動を実現させました。カメラが普及し、手軽に利用できるようになるとともに、「写真で見る」ことは、われわれのごく日常的な生活場面でもさほど特別な活動ではなくなりました。さらにいまでは、カメラ付きケータイがまちを歩く多くのひとの手に握られているのです。

 カメラ付きケータイの普及や利用状況をふまえると、小さなカメラで切り取り、ケータイの画面で見るということ自体が、ひとつのあたらしい“ものの見方”を構成していく可能性があります。ふだんの生活のなかで手軽に写真を撮り、蓄積し、必要に応じて「ケータイで見る」ことは、自分の埋め込まれた社会的・文化的文脈を記録すること、あるいは記録が行われた状況を想起させることと密接に関連していると言えるでしょう。
 ケータイのカメラで写された写真は、多くの場合サイズが小さい…。このサイズ(大体120×120ピクセル程度)そのものが、写真に付加されるあたらしい特性として理解することができます。小さな写真は、「インデックスプリント」(いわゆる「ベタ焼き」)や「サムネイル」としてなじみ深いものです。「サムネイル」は、複数の写真がある場合に一覧性を高めるのに役立ちますが、実際には「サムネイル」の背後には最終的な写真(オリジナルサイズの写真)があることが前提となっています。つまり、「サムネイル」は(サイズ・画質などをふくめ)プレビュー的な意味をもつ形態なのです。

 それに対して、ケータイのカメラで写され、蓄積されていく写真は決してプレビュー用ではなく、オリジナルサイズが小さいのです。撮影や送信の手軽さを実現するために、小さくて軽いデータとしての写真が意味をもつからです。この小さいサイズの写真は、「ケータイで見る」という行為を性格づけます。われわれがケータイのカメラで写真を撮る際には、小さな矩形のフレームに、何をどのように収めるかという意味でのフォーカスの重要性を再認識させるとともに、写した写真を保存するのか、送信するのか、あるいは削除するのかという即時即興的な判断をせまることになります。
 また、「ケータイで見る」際には、矩形に切り取られた写真ばかりではなく、その周辺(つまりはフレームの外)への注視を、従来の写真以上に喚起するのではないでしょうか。つまり、ケータイによる“あたらしい写真”は、それ自体がコンパクトで比較的自由に流通するということにくわえ、小さいこと自体が、われわれの意味の探索に影響をおよぼしうると考えられます。写真は、写っている事柄から写っていない事柄を想起させ、われわれのイマジネーションを刺激します。また、写っていない事柄に想いをめぐらせることによって、われわれはその写真を撮影した人物について洞察をくわえることもできます。ケータイのカメラで写された小さな写真は、こうした写真の本来の特質をより際立たせるのではないかと思います。


(オリジナルは、昨年12月のk-timesのワークショップ後に書いた原稿です)

2003年06月26日

 パブリッシュする、ということ。

これまで、おもに冊子というカタチですが、さまざまな「出版」活動を授業やプロジェクトに組み込んできました。来学期は、〈場〉のチカラでも冊子を編纂する予定なので、その意味について、あらためて考えてみました。
(とてもラフに書いています)

●冊子をつくることの意味

まず重要なのは、〈考えること〉と〈つくること〉との相互作用を重視し、体験的に学ぶ仕組みを構成するという点です。とりわけ、学生にとって「適切」なタスクを設定することがポイントとなります。設定したタスクが、学生の能力(メディアリテラシー等もふくむ)以上の水準を必要とした場合、学生は課題を完成させることができなくなります。逆に、簡単すぎると、動機づけが困難になり、退屈な課題になってしまう(=いわゆる「フロー体験〜没入感」という話です)。この「適切」なレベルを設定することは容易ではないのですが、うまくデザインすることによって、〈考えながらつくる・つくりながら考える〉という学習環境を構成することができるでしょう。

また、「出版」によって「カタチにする」という側面は、具体的なアウトプットのイメージが作りやすく、動機づけに役立ちます。「雑誌をつくろう」「写真集をつくろう」という具体的な目標を明示したり、メタファーや語り口を変えることによって、課題に積極的に関わる姿勢を育むことにもなります。

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2003年06月24日

 同情するならヒマをくれ。

■事実:昨日の“Team Role診断”で、なんとEvaluatorとしての側面が0(ゼロ)という結果となった。
◆気づき:(この結果について、弁解する意味も必要もないが)これはもしかすると、その時々の「状態」を反映するのかもしれない。
●教訓:考えてみれば、最近の仕事のしかた(とりわけ学外での仕事)は、調整作業が多いわりには意思決定の権限を持っていない(判断することはあまり求められていない)ことが多く、それは精神的にも肉体的にも良くないのである。
★宣言:負けずに、ポジティブに行こう!(同情するなら、ヒマをくれぇ!)

2003年06月22日

 情報収集

■事実:私情協の「平成15年度 教育の情報化フォーラム」の仕事で20〜21日は名古屋へ。(暑かった…)
◆気づき:運営委員として関わってきた6年間で、いろいろなひと(課題提起者、スタッフもふくめて)に出会った…とあらためて思う。
●教訓:たとえ1度であっても、何かの〈縁〉で出会ったひととの〈つながり〉が大切になる事が多い(はず)。
★宣言:他大学でのあらたな試みについては、情報収集を怠らない。

 活字離れ

活字離れ…という言いかたについて。
19日に文化庁が公表した「国語に関する世論調査」で、読書量について調べたのは初めてだということです。「1カ月に何冊の本を読むか」(雑誌や漫画を除く)と質問に対して、「全く読まない」が37.6%という結果が出ました。年代別、地域別の結果も出てはいるのですが、こういう調査結果が出ると、「若者の活字離れ」が話題になることが少なくありません。この言いかたは、ほとんど違和感なくやりとりされていますが、少し注意が必要ですね。

たとえば、〈イマドキの学生は新聞を読まない=活字離れ〉という図式で、学生について語ることが多いようです(前任校では、よくこのことが話題になりました)が、近年のメディア環境の変化を考えると、この発想は単純すぎることに気づくでしょう。まず、〈イマドキの学生はほん新聞を読まない〉というのは事実かもしれませんが、「新聞」という媒体、ひいてはマスメディア自体の性格や機能が変わりつつあることを考えれば、〈イマドキの学生は新聞を読まない=活字離れ〉ということにはならないはずです。

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2003年06月18日

 ブログと「ふだん記」

5年ほど前に“メディアと「ふだん記」”というタイトルで書いた文章です。当時は、ウェブの日記について考えながら書いたのですが、ちょっと遅れながらもブログなきょうこのごろ。ここに載せておきます。(ほぼ、執筆当時のまま)

ひと頃、「自分史」というのが流行りましたが、その先駆的な試みとして、「ふだん記」(ふだんぎ)というのがありました。「庶民の文章運動」のひとつとして「ふだん記」運動をすすめた橋本義夫(1902〜1985)こそが、「自分史」のパイオニアだといえるかもしれません。「ふだん記」は、その名前が示唆するように、ふだん着で、ふだんのような気持ちで、飾らずに物を書く、というものです。「下手に書きなさい」「その土地よかれ、その人よかれ」などの題目をつねに掲げ、誰もがじぶんのことばで、じぶんについて書く、ということを積極的に呼びかけました。ガリ版刷りでわずか50部ほどの小冊子を刊行することからはじまり、この運動はやがて全国に広がっていきました。橋本がこの世を去ったいまも、各地でこの「ふだん記」が綴られ、個人の文集や自分史本は、270冊にものぼるということです。

この「ふだん記」運動が、人びとに「自己表現」の機会を提供したこと、すこし大げさにいえば、あたらしい生き甲斐をもたらしたことはまちがいないでしょう。しかしながら、橋本が説いたのは、みずからの体験や見聞を書くことの楽しさばかりではなかったのです。書くといういとなみによって、じぶんを変えることができる、つまり、書くことによって、「見えなかったものが見えるようになる」ということを、彼はくり返し主張しています。その意味で、彼は「メディア・リテラシー」を問題にしていたのではないでしょうか。書くことで「強く」なれる。文字を綴ることで、あたらしい「世界」にアクセスできる。こうした認識が、消えゆくものを「記録する」ことへの情熱的な欲求とともに、「ふだん記」運動をつき動かしていたのかもしれません。

ぼくたちが「地域」や「生活」などについて語るとき、この「ふだん記」感覚はきわめて重要です。「その土地よかれ、その人よかれ」という観点から、さまざまな〈生活記録〉を収集し、分析する。このことは、あたらしい「ふだん記」を生み出すばかりでなく、これまで残され、維持されてきた「記録」について問い直すことでもあります。たとえば、「よそ行き」に描かれた「地域」「生活」は、はたしてどのようなものだったのか。だれが、なぜ、そのように描いたのか。こうした問題意識は、「ふだん記」感覚があるからこそ際立たせることができます。

「ふだん記」は、とにかく書くこと、行動にうつすこと、が基本です。橋本は、『だれもが書ける文章』(講談社現代新書)のなかで、つぎのように書いています。


人間はすぐに上手とか下手とかいう比較をしたがる。これはまた批判家の常則でもある。ところが上手下手よりも「有るかないか」ということが決定的になる場合は、ずいぶん多い。この場合は「有る方がよい」。つまりどんなメモや短文でもよいから、「有るはなきに優る」ことが決定的になる。どんな小さな記録でも、後になって有るかないかが、大きなことになってくるのが世の常である。

文字そして書物という旧来のかたちであったとはいえ、ぼくが「ふだん記」運動について知りえたのは、それが「記録」として残されていたからです。「有るはなきに優る」。まさに、橋本自身が熱く説いていたように、「記録」は人を長生きさせるのです。

このブログは、ぼくが「ふだん記」を綴るという「宣言」です。そして、これはまた、ぼくのプロジェクトが数年、数十年と「生き続けていく」ためのひとつの「記録」となります。

 きっかけ

■事実:「ゆとりの時間」のグループが、ようやくブログ(vanoblog)に記事を書いた。
◆気づき:みんな、忙しかったことは事実だとは思うが、やはり「きっかけ」が大事なのだとあらためて思う。
●教訓:だとすれば、その「きっかけ」づくりにじぶんはどれだけ気を配っているか、について意識的していなければならない。
★宣言:もっともっと、コミュニケーションの繊細さを探求します。

2003年06月17日

 誕生日

■事実:日付は変わってしまったが、昨日はと○いさんとぎ○ゅーのバースディであった。
◆気づき:そういえば、先学期の名簿には、メンバーのバースディが記載されていた。
●教訓:メンバーの個人情報をどこまで集めるのか・どこまでお互いにオープンにするかについて再度考えたほうがいい。
★宣言:とにかく、ふたりともおめでとう!

(こんなのでいいのかなー?)

2003年06月15日

 書店

■事実:日曜日のちょっと中途半端な時間に、大きめの書店に行く機会があった。
◆気づき:最近、書店に行く…ということをしていなかった。「ファシリテーション」関係の本を見ようと、ビジネス本のコーナーを見ていたら、自己啓発や図解・プレゼンテーション関係の新刊が(思っていたよりも)たくさんあった。
●教訓:Amazonで注文ばかりしているのは問題だ。
★宣言:ちゃんと時間をやりくりして、書店のなかをブラブラしよう。(したい!)

 4行ブログ

つい先ほど、小林惠智(2002)『1日5分 奇跡を起こす4行日記:成功者になる「未来日記」のつくり方』(オーエス出版)を立ち読みしていました。
立ち読みせずにちゃんと買ってくればよかったんだけど、以下の項目で、1日4行書くのです(それぞれ1行)。

■事実
◆気づき
●教訓
★宣言

肯定的な自己宣言を書くということで、「未来」が見えてくるのでしょうか?
ということで(ちゃんと本を読んでから…と思いつつ):

■事実:blogを設置したときほど、書いていない(最近はとくに忙しい…のも事実)。
◆気づき:書くために書くのはダメだけど、やはり、続くことには意味がある。そう思う。
●教訓:とてもシンプルなルール(例:1日200文字?)でもいいから、続けてみることが大事。そのための工夫を怠ってはいけない(とりあえずは「実験する精神」を維持することを考えてみる)。
★宣言:というわけで、「4行ブログ」のはじまり!(これはまだ誰もやっていないでしょ?)

2003年06月11日

 昨日の大学院の講義後に

大学院の授業のほうでも、ケータイによる調査の“ミニプロジェクト”をスタートしあました。まずは、忘れないうちにほそだくんのメール(一部をカット)を、ここに貼っておく。
(以下、すべてほそだ氏のメールより)

【大和市関連】

ネットワークコミュニティの授業ページ(大和市の小林さんの講義)
 → http://web.sfc.keio.ac.jp/~yamatotk/netcom/netcom.htm

その中でも、写真で市民の活動支援というところでは、第3回のパワポ
 → http://web.sfc.keio.ac.jp/~yamatotk/netcom/netcom3.pdf

そこで取り上げられていたシアトルのページ
 → http://www.cityofseattle.net/

シアトル関連
 → http://up.t.u-tokyo.ac.jp/northamerica/seattle2001/top.html

大和市運営のコミュニティサイト「どこでもコミュニティ」
 → http://www.city.yamato.kanagawa.jp/

2003年06月10日

 なぜか

きのう、と●いさんに「生活感がある…」と言われましたが、どういうことなんでしょう?
きっと別のもっと「適切な」表現があったにちがいない、と思いつつ、運転するときに気が散ってしまいました。(ほとんど無意味なエントリーですが…あとでなんとかします)

2003年06月02日

 blogとファシリテーション

「ドラフト」は数本あるのですが、「パブリッシュ」せず…あっという間に6月です。

こちらはボチボチとすすみ、ほとんど“ウィークエンド・ブログ”になりつつありますが、〈場〉のチカラのblog -- [vanoblog]のほうは、(たくさんのauthorがいるおかげで)順調に記事やコメントが続いています。

実際にblog(mt)をはじめたのは、ちょっとしたはずみのようなもので、とくにこれといった理由はないのですが、頭のどこかで考えていたのは(いるのは)、さまざまなプログラム(プロジェクト)を運営していく過程で、ウェブをはじめとするネットワーク環境はとても重要な意味をもつ、ということです。とくに、日本の大学のウェブの発信力については、もっときちんと考えていかなくては…と日ごろから感じています。たとえば、blog(mt)を使って、〈アカデミック・ウェブ〉について考えることができるのでは…と漠然と思ったのです。とにかく実験してみよう、と。

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 分類不能

もともとは、〈場〉のチカラのblog [vanoblog] のほうで、yogoくんが書いた記事なのですが、
あっちでは、記事の運命がどうなるかわからないので(…という実験をするので)こちらにコピーしておきます。こっちでも、育ててみます。

タイトル:スタバ写真騒動(もしくはblog編集権練習場)
サブタイトル:ちゃんと、みんなで文章を書いてみようぜ。

ケータイに付いたカメラで写したモノを「写真」として認めるかどうか。これについては、いろいろな議論があるかもしれませんね。デジカメが登場した頃にも、そういう議論があったように記憶しています。ちいさくて、しかも画面で見ることの方が多いような、ケータイで撮った「写真」(あるいは「写真のようなもの」)は、いったい何なのか。これについて考えてみたいと思います。

スタバで友だちと写真を撮る、なんていうことは、フツーにありそうなことです。店内の様子を観察するなんて、まず考えていないし、肖像権というものが(その存在は知っていても)いったいどういう時、どのように問題になるのか、などということはあまり意識していないでしょう。ちょっと記念に、ちょっと友だちがヘンな顔をしたから…。テーブルの上に置いてあったカメラ付きケータイで、“ピロリ〜ン(これJ-Phoneです)”。これが毎回毎回咎められ、「いまの消去してください」などと言われたら、もうスタバには行きませんよ。

もちろん、ここではスタバそのものを問題にしようというのではなく、カメラ付きケータイはどこまで許されるのか、どこまで入って行けるのか、を考えるきっかけなのです。

スタバ写真騒動