[ 2003年07月 ]

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2003年07月30日

 とりあえず、やってみたら、こんな感じになって、

このままだと、続かなくなりそうなので、〈場〉のチカラのほうにも書いた内容を、そのままここに…。(2重トラックバックになってしまいますが…>しんご&シマケン)

とりあえず、やってみたら、こんな感じになって、続いている…ということなんでしょうね、vanoblogは。

しんごの記事に関して(あっちにコメントを書いてもいいのですが、こっちにも話題を持ってきました):シマケンが以下のようなコメントをしています。


たしかに、vanoblogはいわゆるblogとは一線を画しているような気はしていました。
「編集」ということがメインとしてあるよりも、「グループウェア」という表現がしんごちゃんにされていますが、web上での割とアカデミックな(適当でない)やり取りや提案ができる場なのではないかと個人的に理解して使っています。
だからなぜ自分の所にblogを置かないかといえば、blogの使い方として今のvanoblog(35人blog)としての使い方が非常に楽しいので、日記として個人的につかうのなら今のhtmlのままで十分だと思い設置していないんだと思うのです。
ひとまずそのような理解なわけです。

ということですが、この感覚はとてもおもしろい、と思います。おととい、シマケンと「日替わり御膳」を食べながら話したのですが、vanoblogって、べつにこれまでの掲示板(電子会議室)でも、技術的・機能的には可能なわけです。匿名性の問題(つまり、発信者を特定しづらくなるのでいい加減な書き込み、言いっぱなしが増えるなど)はあるかもしれないけれど、研究プロジェクトの掲示板であれば、ある程度「誰なのか」はバレていくし、荒れる…という感じもないでしょう。Authorshipについて言えば、掲示板でもじぶんでエントリーを作成できるわけです。コメント(レス)もつけられます。

にもかかわらず、掲示板(電子会議室)だと、なんとなく(雰囲気としては)マジメな書き込みは少ないのに(ほとんどないのに)、movable typeというのを設置して、全員をauthorとして登録した…というだけで、「web上での割とアカデミックな(適当でない)やり取りや提案ができる場」になってしまうんでしょうか?
掲示板だと他愛のない話しになりがちで、movable typeを使うと「適当でない」話ができるのでしょうか?
これは、とても興味ぶかいですね。つまり、現時点では、ぼくたちは技術的なあたらしさや、blogならでは、の楽しみかたや優れたところを、(ほとんど)わからぬまま(また議論もせずに)使っているわけです。技術的な関心を寄せているひとや、「blog道(どう)」(そんなものがあれば…ですが)を極めているひとからすれば、「邪道」なのかもしれません。でも、vanoblogの3か月間をふりかえって素朴な発見(再確認)は、あるメディア(あるいは、コミュニケーションのスタイル)がどのように紹介され、どのように使い始めるか…という最初の接触のしかたによって、技術そのものの性格づけがおこなわれる場合がある…ということです。それは、技術的な可能性とは、直接関係のないかたちで、性格づけがおこなわれうるということでもあります。

「雰囲気」の時代なのです。とりあえず、やってみたら、こんな感じになって…という時代です。いまのところ、いい感じなので、続いている…。vanoblogはそれでいいのだと思います。シモムラ氏が言うような“CommonBlog”などというのはカッコ良すぎです。“グループウェア”と言うほどの使いかたをしているわけではないし、もしそのためだったら、もっと適したものがあるのだと思います。vanoblogは、PCを立ち上げたら、「なんとなく、来ちゃった」という〈場〉になれば良いのでしょう。それなりに、「適当でない」ことが書き込まれて、みんなが何を考えて、何をしているのか、がわかればじゅうぶんです。35人もauthorがいるから、続けることができます(実際には、頻繁に書き込むひとは10数人かもしれません)。それでいて、外から見ると、「あ、楽しそう」と思える〈場〉になれば、と思います。

2003年07月20日

 遅れましたが、

「4行ブログ」(じつはすでにやっているひとがいたんだけど)をはじめるきっかけとなった、小林惠智(2002)『1日5分 奇跡を起こす4行日記:成功者になる「未来日記」のつくり方』(オーエス出版)をやっと買いました。

やりかたが全然ちがっていました…とくに「★宣言」の部分。いずれも「わたしは、…です」という肯定文とのこと。

今日はできなかったけれど、明日(将来)はできるようになりたいと思うことを、できていることとして「宣言」します。(p. 52)

やはり立ち読みではダメですね。もう少しちゃんと読んでみて、(それなりにアレンジはするかもしれませんが)やってみます。あとで。

2003年07月13日

 あだ名論

■事実:よりフラットな関係をつくるために、「あだ名」が重要な役割を果たす、という“あだ名論”が静かながら?議論の対象になっている。(あと、「呼称と関係性」も)
◆気づき:アイスブレーキングとしての意味は重要だが、問題は、「あだ名」をつけること自体が、目的ではないということ。
●教訓:ここで論じている「あだ名」は、コミュニケーション、つまりは関係性の理解や状況の定義と結びついていなければ意味がない。
★宣言:「あだ名」をつけ、呼び合うことが、よりフラットな人間関係を実現するためのひとつの方法なのか??「あだ名論」について論じるだけではなく、きちんと実践(実験)と結びつけるように!

2003年07月10日

 向き合うのか、それとも横に

カメラ付きケータイは、“あたらしい写真”ともいうべきものを生み出しつつあります。それは、ぼくたちのふだんのコミュニケーション行動を通じて、「生活記録」が、逐次収集・蓄積されていくという環境を実現することになるでしょう。

ケータイどうしで写真を送り合うヴィジュアル・コミュニケーションを、相手との「位置関係(relational orientation)」から考えてみると、大きく2つのパターンがあるように思えます。(このあたりは、もう少しわかりやすく整理します…)

【相手の顔を「見る」】
まず、自分自身の「顔」を写し込んだ画像を送り合うというパターンです。これは、テレビ会議とおなじ感覚で、物理的に離れていて、しかも顔が見えないという状況にあって、お互いの(あるいは一方の)「顔(表情)」を写真によって伝える働きをします。この場合は、相手の「顔」を手元に引き寄せることになります(つまり、フェイス・トゥ・フェイスを実現するということです)。声によって時間を共有していることを実感するとともに、写真を通じて相手の「顔」を引き寄せ、空間の経験を共有することになります。この場合、会話するふたりは感覚的には向き合っていると言えるでしょう。写真を介して、お互いの視線は交錯します。

【相手の見ているモノ・コトを「見る」】
もうひとつのパターンは、自分が対象として見た風景を写して送信するパターンです。この場合、物理的な隔たりは上記と同じなのですが、会話をするふたりの向きが感覚的に異なるのではないかと考えられます。つまりこの場合は、離れていながらも、一枚の写真を介しておなじ〈モノ・コト〉を見ることになります。向き合うのではなく、隣にいて、同じ方向を向いているという感覚が生まれるのではないかと思います。もしかすると、ケータイのカメラで撮影された画像を介したヴィジュアル・コミュニケーションでは、「向き合う」のではなく「並ぶ」という関係性が重要な意味をもつのかもしれません。

いずれの場合も、コミュニケーション論の観点からとくに興味ぶかいのは、会話のはじめの時点(opening)で交わす言葉です。ケータイでの会話のオープニングで、もっとも多いと思われるのが「いまどこ?」あるいは「いまだいじょうぶ?」という確認のためのコミュニケーションです。本来、ケータイは、電波の届く範囲にいる相手に対して、「いつでも・どこでも」アクセスを試みることができる、という性質を持っているので、その意味で、固定電話(イエ電、公衆電話など)とちがい、時間や場所からある程度は解放されるはずです。
にもかかわらず、実際には「いま・どこ?」という質問によって、相手がいる物理的な場所をたずねることが多いようです。その質問によって、相手の状況(situation)を理解し、相手が、現在「だいじょうぶ」かどうか、つまりコミュニケーションが可能かどうか(available)を確かめるのです。カメラ付きケータイで写真を送るという行為も、自分自身が「いま・どこ」にいるのかということ、コミュニケーションの場所性に意識を向かわせるかもしれません。

(要・大幅改稿 → とりあえず、「パブリッシュ」)

2003年07月04日

 〈方法〉としてのケータイ

ケータイは、日常生活のリズムを変え、より重層的なコミュニケーションを「いつでも・どこでも」可能にするメディアとして位置づけることができる。この特徴に注目する時、通信機能を内蔵したデジタルカメラとしてのケータイを、「社会調査」という観点、とりわけ、生活誌・生活史やライフヒストリーアプローチ(たとえばPlummer, 1983など)との関連で考えることはきわめて興味ぶかい。

われわれの日常生活にはさまざまな「個人的記録」がある。たとえば写真、手紙、日記、切符、伝票、成績表など、すべて広い意味で「生活記録(life document)」と呼ぶべきものである。そして、こうした「生活記録」をつうじて、自らの生活が埋め込まれた社会的・文化的な文脈や、自分の内面について洞察をくわえることができる。多くのひとが持ち歩くケータイのカメラによって切り取られる日常生活の「ひとコマ」も、ひとつの「生活記録」として理解することができる。写真を時間的に、あるいは空間的に分類・配列することによって、個人の行動軌跡や人々が集った〈現場〉をある程度再現することができる。

こうしたアプローチにおいて基本となるのは、観察や記録のための技術や方法であり、さまざまなメディアの活用によって調査自体のデザインも変化してきた。ビデオやオーディオによる記録によって、調査の〈現場〉をある程度まで復元することができる。記録を繰り返して再生することによって、〈現場〉についてのより詳細な記述が可能になった。以下では、デジタルカメラとしてのケータイを活用した調査が、これまでの調査方法、ひいてはものの見方・考え方をどのように変えうるかについて論点を整理しておきたい。

krp.gif

●調査に関わるコスト感覚の変容
あたらしいメディアを活用することによって、調査に関わるコスト、そしてコストに対する心理的な感覚が変容する可能性がある。ここで言うコストは、当然のことながら研究者による調査のデザイン・実施・運営に関わるコストのみならず、被調査者の心理的な負担などをもふくめたものである。デジタルメディアの特質である“モニター機能”の活用によって、非干渉的、あるいは相互干渉的といえる調査方法のあたらしい方向性を模索することができる。

●プロセスとしての調査
さらに、調査に関わる時間感覚も変化する可能性がある。従来の調査は、たとえば質問紙調査の場合は、質問票の配布から回収という一連の流れが、ある決められた時間のなかでおこなわれてきた。携帯端末というケータイの特質を生かして、「いつでも・どこでも」データ収集が可能になれば、調査そのものの「始まり」や「終わり」を同定することが困難になる。現に、こうしたアイデアにもとづいた調査システムが稼働しており、逐次更新されるデータにもとづく「アドホックな」調査結果を、そのつど解釈していくというあたらしいスタイルが提案されている。このことは、調査そのものの目的を再定義することになるだろう。

●自発的・不可避的なデータの蓄積
常に携帯することが習慣となっているケータイを社会調査に用いることによって、調査自体の「終わり」(そしてある場合には「始まり」)が不明確になり、また調査に関わる金銭的・物理的・心理的なバリアーの軽減に至るかもしれない。このような状況は、被調査者による自発的なデータの蓄積があるということと密接な関係を持つ。またセンサー技術の発展を通じ、近い将来には、壁や街並みに装着されたメディアと連動することによって、いわば不可避的にデータが収集されていく可能性もある。当然のことながら、プライバシーの問題などさまざまな問題があるが、われわれがケータイなどの機器を持ち歩くことによって、より自動的にデータが収集・蓄積されていくという方向性が考えられる。

(オリジナルは、昨年12月のk-timesのワークショップ後に書いた原稿です:来期の「社会調査法B」に向けて、改稿中:未完成のため、引用する際はご一報ください)

2003年07月02日

 ネットワークコミュニケーション

●事実:7月になったので(いよいよ学期の終わりが見えてきたので)、これまで「ウラ」だったMLを「オモテ」に切りかえることにした。
◆気づき:3か月足らずの間に、かなりのメールが飛び交ったことを再確認。
■教訓:「ウラ」だからこそ幸せでいられることがたくさんある。「オモテ」になることは、逆に混乱を招くかもしれない。(あたらしい研究フェーズの始まり、という考えかたもできるけど)
★宣言:「薄口」よりはむしろ「濃口」であることをアピールしてみたい!(唐突なつながりに違和感をおぼえるひとは、vanoblogのブックレビューを参照)