「戦いかた」を変えてみる。
【まえがき】驚くべきことに、そして不本意なことに、googleで「財前五郎」と入力すると、この記事(2003年10月18日)が1位になっています(2004年3月14日現在)。で、そのためか“財前派”(…と、勝手に呼びます)のひとからコメントが書き込まれています。とりあえず、書き込んでおこうっていう感じで、コメントがつながっていくんでしょうか…。(かくいうぼくは、“大河内派”なんですけど)
【さて、本題】素直にテレビを観ていればいいのでしょうが、ついつい、ふだん考えていることと結びつけてしまいます(その意味では、脚本の構成がうまいということなのかもしれません…褒めすぎ)。相変わらず、ハマっております。いよいよ最終回も間近です。
書くのがだいぶ遅れてしまいましたが、4日放送の「白い巨塔」は、良かったですね。とくに印象に残りました。
「戦いかたを間違っていたのかもしれない…」という認識。これがきっかけとなって、そもそも何が問題なのかが変わる。争点が変わることで、あたらしいことがらが問題として見えてくる…。
いわゆる「技術的な合理性(technical rationality)」ではなくて、「コミュニケーションの実践(reflection-in-action)」が問われるかたちになりました(ショーンの本では別の訳ですが、コミュニケーションということばでいいと思います)。当然のことながら、プロフェッショナルとしての知識や技術は重要なのですが、その知識や技術を活かす〈場〉において、どのようなコミュニケーションがおこなわれたか…ということが、結局のところは、ひとと接する仕事のクオリティに直結するという点がクローズアップされました。
ドラマの中では、「説明責任」「インフォームドコンセント」の問題が強調されていたようですが、じつは、ふだんの何気ないことば遣いや、動作、ちょっとしたしぐさなども、ひととひととの関係性を考える上で無視することができないということです。とくに、医者と患者、教員と学生など、比較的わかりやすいかたちで関係性が規定されている場合、この問題は重要です。無理に愛想よくするとか、ヘンに迎合する(ゴキゲンをうかがう)のではなく、きちんと向き合うということです。プロフェッショナルとしての資質を問うとき、知識や技術面よりも、クライアント(広い意味でのクライアント)にどのように接するのか、どのような関係性を構築していくのかという意味でのコミュニケーション能力(あるいはセンス)こそが重要なのです。
たとえば、プロフェッショナルとしてのファシリテーション能力について考えるとき、どうしてもファシリテーションの“効果”に着目しがちです。そして、目標が明確になっていればいるほど、ファシリテーションの成否が見えやすくなります。しかし、技術としてのファシリテーションがすべてではない…ということです。コミュニケーションとしてのファシリテーションを理解すること。そのための考え方や方法についてはまだまだじゅうぶんに議論されていないようです。
「戦いかた」を変えてみる…。これによって、あたらしい理解が生まれることがあります。
(さぁ、こんな理屈は抜きにして、最終回で泣こう。)

コメント
泣きました。
世の中辛いことが多いですね。
うまくいかないことがおおいですね。
でも来週の特番を生きがいに生きていきます。
色々書きたいからそろそろblogをたちあげようかな・・・。
Posted by: tumakeso | 2004年03月19日 00:48