• 2003-07-10 08:01:04
  • 向き合うのか、それとも横に
カメラ付きケータイは、“あたらしい写真”ともいうべきものを生み出しつつあります。それは、ぼくたちのふだんのコミュニケーション行動を通じて、「生活記録」が、逐次収集・蓄積されていくという環境を実現することになるでしょう。

ケータイどうしで写真を送り合うヴィジュアル・コミュニケーションを、相手との「位置関係(relational orientation)」から考えてみると、大きく2つのパターンがあるように思えます。(このあたりは、もう少しわかりやすく整理します…)

【相手の顔を「見る」】
まず、自分自身の「顔」を写し込んだ画像を送り合うというパターンです。これは、テレビ会議とおなじ感覚で、物理的に離れていて、しかも顔が見えないという状況にあって、お互いの(あるいは一方の)「顔(表情)」を写真によって伝える働きをします。この場合は、相手の「顔」を手元に引き寄せることになります(つまり、フェイス・トゥ・フェイスを実現するということです)。声によって時間を共有していることを実感するとともに、写真を通じて相手の「顔」を引き寄せ、空間の経験を共有することになります。この場合、会話するふたりは感覚的には向き合っていると言えるでしょう。写真を介して、お互いの視線は交錯します。

【相手の見ているモノ・コトを「見る」】
もうひとつのパターンは、自分が対象として見た風景を写して送信するパターンです。この場合、物理的な隔たりは上記と同じなのですが、会話をするふたりの向きが感覚的に異なるのではないかと考えられます。つまりこの場合は、離れていながらも、一枚の写真を介しておなじ〈モノ・コト〉を見ることになります。向き合うのではなく、隣にいて、同じ方向を向いているという感覚が生まれるのではないかと思います。もしかすると、ケータイのカメラで撮影された画像を介したヴィジュアル・コミュニケーションでは、「向き合う」のではなく「並ぶ」という関係性が重要な意味をもつのかもしれません。

いずれの場合も、コミュニケーション論の観点からとくに興味ぶかいのは、会話のはじめの時点(opening)で交わす言葉です。ケータイでの会話のオープニングで、もっとも多いと思われるのが「いまどこ?」あるいは「いまだいじょうぶ?」という確認のためのコミュニケーションです。本来、ケータイは、電波の届く範囲にいる相手に対して、「いつでも・どこでも」アクセスを試みることができる、という性質を持っているので、その意味で、固定電話(イエ電、公衆電話など)とちがい、時間や場所からある程度は解放されるはずです。
にもかかわらず、実際には「いま・どこ?」という質問によって、相手がいる物理的な場所をたずねることが多いようです。その質問によって、相手の状況(situation)を理解し、相手が、現在「だいじょうぶ」かどうか、つまりコミュニケーションが可能かどうか(available)を確かめるのです。カメラ付きケータイで写真を送るという行為も、自分自身が「いま・どこ」にいるのかということ、コミュニケーションの場所性に意識を向かわせるかもしれません。

(要・大幅改稿 → とりあえず、「パブリッシュ」)

  • 2003-07-04 08:48:04
  • 〈方法〉としてのケータイ
ケータイは、日常生活のリズムを変え、より重層的なコミュニケーションを「いつでも・どこでも」可能にするメディアとして位置づけることができる。この特徴に注目する時、通信機能を内蔵したデジタルカメラとしてのケータイを、「社会調査」という観点、とりわけ、生活誌・生活史やライフヒストリーアプローチ(たとえばPlummer, 1983など)との関連で考えることはきわめて興味ぶかい。

われわれの日常生活にはさまざまな「個人的記録」がある。たとえば写真、手紙、日記、切符、伝票、成績表など、すべて広い意味で「生活記録(life document)」と呼ぶべきものである。そして、こうした「生活記録」をつうじて、自らの生活が埋め込まれた社会的・文化的な文脈や、自分の内面について洞察をくわえることができる。多くのひとが持ち歩くケータイのカメラによって切り取られる日常生活の「ひとコマ」も、ひとつの「生活記録」として理解することができる。写真を時間的に、あるいは空間的に分類・配列することによって、個人の行動軌跡や人々が集った〈現場〉をある程度再現することができる。

こうしたアプローチにおいて基本となるのは、観察や記録のための技術や方法であり、さまざまなメディアの活用によって調査自体のデザインも変化してきた。ビデオやオーディオによる記録によって、調査の〈現場〉をある程度まで復元することができる。記録を繰り返して再生することによって、〈現場〉についてのより詳細な記述が可能になった。以下では、デジタルカメラとしてのケータイを活用した調査が、これまでの調査方法、ひいてはものの見方・考え方をどのように変えうるかについて論点を整理しておきたい。

krp.gif

●調査に関わるコスト感覚の変容
あたらしいメディアを活用することによって、調査に関わるコスト、そしてコストに対する心理的な感覚が変容する可能性がある。ここで言うコストは、当然のことながら研究者による調査のデザイン・実施・運営に関わるコストのみならず、被調査者の心理的な負担などをもふくめたものである。デジタルメディアの特質である“モニター機能”の活用によって、非干渉的、あるいは相互干渉的といえる調査方法のあたらしい方向性を模索することができる。

●プロセスとしての調査
さらに、調査に関わる時間感覚も変化する可能性がある。従来の調査は、たとえば質問紙調査の場合は、質問票の配布から回収という一連の流れが、ある決められた時間のなかでおこなわれてきた。携帯端末というケータイの特質を生かして、「いつでも・どこでも」データ収集が可能になれば、調査そのものの「始まり」や「終わり」を同定することが困難になる。現に、こうしたアイデアにもとづいた調査システムが稼働しており、逐次更新されるデータにもとづく「アドホックな」調査結果を、そのつど解釈していくというあたらしいスタイルが提案されている。このことは、調査そのものの目的を再定義することになるだろう。

●自発的・不可避的なデータの蓄積
常に携帯することが習慣となっているケータイを社会調査に用いることによって、調査自体の「終わり」(そしてある場合には「始まり」)が不明確になり、また調査に関わる金銭的・物理的・心理的なバリアーの軽減に至るかもしれない。このような状況は、被調査者による自発的なデータの蓄積があるということと密接な関係を持つ。またセンサー技術の発展を通じ、近い将来には、壁や街並みに装着されたメディアと連動することによって、いわば不可避的にデータが収集されていく可能性もある。当然のことながら、プライバシーの問題などさまざまな問題があるが、われわれがケータイなどの機器を持ち歩くことによって、より自動的にデータが収集・蓄積されていくという方向性が考えられる。

(オリジナルは、昨年12月のk-timesのワークショップ後に書いた原稿です:来期の「社会調査法B」に向けて、改稿中:未完成のため、引用する際はご一報ください)

  • 2003-07-02 19:04:50
  • ネットワークコミュニケーション
●事実:7月になったので(いよいよ学期の終わりが見えてきたので)、これまで「ウラ」だったMLを「オモテ」に切りかえることにした。
◆気づき:3か月足らずの間に、かなりのメールが飛び交ったことを再確認。
■教訓:「ウラ」だからこそ幸せでいられることがたくさんある。「オモテ」になることは、逆に混乱を招くかもしれない。(あたらしい研究フェーズの始まり、という考えかたもできるけど)
★宣言:「薄口」よりはむしろ「濃口」であることをアピールしてみたい!(唐突なつながりに違和感をおぼえるひとは、vanoblogのブックレビューを参照)

  • 2003-06-29 20:11:56
  • ケータイのカメラ
 カメラ付きケータイのさまざまな利用形態は、“あたらしい写真”ともいうべきものを生成しつつあります。ソンタグ(1977)が『写真論』で示唆したように、写真は「写真で見る」というあたらしい活動を実現させました。カメラが普及し、手軽に利用できるようになるとともに、「写真で見る」ことは、われわれのごく日常的な生活場面でもさほど特別な活動ではなくなりました。さらにいまでは、カメラ付きケータイがまちを歩く多くのひとの手に握られているのです。

 カメラ付きケータイの普及や利用状況をふまえると、小さなカメラで切り取り、ケータイの画面で見るということ自体が、ひとつのあたらしい“ものの見方”を構成していく可能性があります。ふだんの生活のなかで手軽に写真を撮り、蓄積し、必要に応じて「ケータイで見る」ことは、自分の埋め込まれた社会的・文化的文脈を記録すること、あるいは記録が行われた状況を想起させることと密接に関連していると言えるでしょう。
 ケータイのカメラで写された写真は、多くの場合サイズが小さい…。このサイズ(大体120×120ピクセル程度)そのものが、写真に付加されるあたらしい特性として理解することができます。小さな写真は、「インデックスプリント」(いわゆる「ベタ焼き」)や「サムネイル」としてなじみ深いものです。「サムネイル」は、複数の写真がある場合に一覧性を高めるのに役立ちますが、実際には「サムネイル」の背後には最終的な写真(オリジナルサイズの写真)があることが前提となっています。つまり、「サムネイル」は(サイズ・画質などをふくめ)プレビュー的な意味をもつ形態なのです。

 それに対して、ケータイのカメラで写され、蓄積されていく写真は決してプレビュー用ではなく、オリジナルサイズが小さいのです。撮影や送信の手軽さを実現するために、小さくて軽いデータとしての写真が意味をもつからです。この小さいサイズの写真は、「ケータイで見る」という行為を性格づけます。われわれがケータイのカメラで写真を撮る際には、小さな矩形のフレームに、何をどのように収めるかという意味でのフォーカスの重要性を再認識させるとともに、写した写真を保存するのか、送信するのか、あるいは削除するのかという即時即興的な判断をせまることになります。
 また、「ケータイで見る」際には、矩形に切り取られた写真ばかりではなく、その周辺(つまりはフレームの外)への注視を、従来の写真以上に喚起するのではないでしょうか。つまり、ケータイによる“あたらしい写真”は、それ自体がコンパクトで比較的自由に流通するということにくわえ、小さいこと自体が、われわれの意味の探索に影響をおよぼしうると考えられます。写真は、写っている事柄から写っていない事柄を想起させ、われわれのイマジネーションを刺激します。また、写っていない事柄に想いをめぐらせることによって、われわれはその写真を撮影した人物について洞察をくわえることもできます。ケータイのカメラで写された小さな写真は、こうした写真の本来の特質をより際立たせるのではないかと思います。


(オリジナルは、昨年12月のk-timesのワークショップ後に書いた原稿です)

  • 2003-06-26 08:05:17
  • パブリッシュする、ということ。
これまで、おもに冊子というカタチですが、さまざまな「出版」活動を授業やプロジェクトに組み込んできました。来学期は、〈場〉のチカラでも冊子を編纂する予定なので、その意味について、あらためて考えてみました。
(とてもラフに書いています)

●冊子をつくることの意味

まず重要なのは、〈考えること〉と〈つくること〉との相互作用を重視し、体験的に学ぶ仕組みを構成するという点です。とりわけ、学生にとって「適切」なタスクを設定することがポイントとなります。設定したタスクが、学生の能力(メディアリテラシー等もふくむ)以上の水準を必要とした場合、学生は課題を完成させることができなくなります。逆に、簡単すぎると、動機づけが困難になり、退屈な課題になってしまう(=いわゆる「フロー体験〜没入感」という話です)。この「適切」なレベルを設定することは容易ではないのですが、うまくデザインすることによって、〈考えながらつくる・つくりながら考える〉という学習環境を構成することができるでしょう。

また、「出版」によって「カタチにする」という側面は、具体的なアウトプットのイメージが作りやすく、動機づけに役立ちます。「雑誌をつくろう」「写真集をつくろう」という具体的な目標を明示したり、メタファーや語り口を変えることによって、課題に積極的に関わる姿勢を育むことにもなります。


前任校での活動もふくめてふりかえると、たとえば「出版」に関わるメタファーで授業を構成することによって、教員と学生との関係性が質的に変化するように思います。
あえて単純化すると、従来、教員は「読み手」、学生は「書き手」であり、そこでは、教員は「見る(評価する)」、学生は「見られる(評価される)」存在として、両者の関係性が比較的明確です。「雑誌」の編集を協同作業をつうじて実現することによって、相互に〈見る=見られる〉という意識が強くなり、あたらしい感覚が生まれるようです。〈学生が教員のために(単位のために)「レポート」を書く〉のではなく、〈みんなで「雑誌」をつくろう〉という語り口にしただけで、それまでほとんど無意識のうちに想定していた〈教員=学生〉という関係性や視線(つまり「読み手」は誰か)の問題を再認識することになります。したがって、こうした関係性の変容をふまえ、何をつくるか、つくるためにどのような人間関係やコミュニケーションのあり方を想定するか、がきわめて重要な課題だと言えるでしょう。

また、複数のプロジェクト活動の関係にも着目する必要があります。たとえば(実際に前任校で試してみたのですが)ある学期に「雑誌」を作成し、次の学期には「写真集」を作る、というように、「出版」という活動が継続的におこなわれるような場合を考えてみましょう。
* 「ちいさなメディア論」では、シリーズ化して、「その1」から「その4」まで冊子をつくりました。

学期が変われば(つまり、時間割上の開講科目が変われば)、当然のことながら授業の内容・構成、さらには受講生も変わることになります。引き続きおなじ学生が科目を履修する場合もありますが、学期ごとに何らかの成果物が「カタチになる」ことで、それぞれの「出版」活動は完結します。重要だと思われるのは、ひとつのプロジェクトでの成果を、他のプロジェクトにおいて活用し、ことなるプロジェクト活動どうしを有機的に結びつけることです。

すでに完成し公開された「作品」は、いわゆる“お手本”としてばかりではなく、「出版」というプロセスそのものの理解を促すために、重要な役割を果たします。テーマや内容、「出版」の方法(メディア・モード)がことなる場合でも、協同作業のあり方や課題のデザイン・運営については、共通部分が少なくないからです。ひとつの「作品」は、〈考えながらつくる・つくりながら考える〉という学習プロセスの所産として理解されるべきものであり、プロジェクトそのものの評価に役立つのかもしれません。

(とりあえず、ここまででストップ)

  • 2003-06-24 13:07:28
  • 同情するならヒマをくれ。
■事実:昨日の“Team Role診断”で、なんとEvaluatorとしての側面が0(ゼロ)という結果となった。
◆気づき:(この結果について、弁解する意味も必要もないが)これはもしかすると、その時々の「状態」を反映するのかもしれない。
●教訓:考えてみれば、最近の仕事のしかた(とりわけ学外での仕事)は、調整作業が多いわりには意思決定の権限を持っていない(判断することはあまり求められていない)ことが多く、それは精神的にも肉体的にも良くないのである。
★宣言:負けずに、ポジティブに行こう!(同情するなら、ヒマをくれぇ!)

■事実:私情協の「平成15年度 教育の情報化フォーラム」の仕事で20〜21日は名古屋へ。(暑かった…)
◆気づき:運営委員として関わってきた6年間で、いろいろなひと(課題提起者、スタッフもふくめて)に出会った…とあらためて思う。
●教訓:たとえ1度であっても、何かの〈縁〉で出会ったひととの〈つながり〉が大切になる事が多い(はず)。
★宣言:他大学でのあらたな試みについては、情報収集を怠らない。

活字離れ…という言いかたについて。
19日に文化庁が公表した「国語に関する世論調査」で、読書量について調べたのは初めてだということです。「1カ月に何冊の本を読むか」(雑誌や漫画を除く)と質問に対して、「全く読まない」が37.6%という結果が出ました。年代別、地域別の結果も出てはいるのですが、こういう調査結果が出ると、「若者の活字離れ」が話題になることが少なくありません。この言いかたは、ほとんど違和感なくやりとりされていますが、少し注意が必要ですね。

たとえば、〈イマドキの学生は新聞を読まない=活字離れ〉という図式で、学生について語ることが多いようです(前任校では、よくこのことが話題になりました)が、近年のメディア環境の変化を考えると、この発想は単純すぎることに気づくでしょう。まず、〈イマドキの学生はほん新聞を読まない〉というのは事実かもしれませんが、「新聞」という媒体、ひいてはマスメディア自体の性格や機能が変わりつつあることを考えれば、〈イマドキの学生は新聞を読まない=活字離れ〉ということにはならないはずです。


実際に活字について考えてみると、イマドキの学生は、じつに多くの活字を消費しています。もちろん、本や新聞をはじめとするプリントメディア(印刷物)から遠ざかっているという傾向はあるかもしれませんが、デジタルメディアを介して、じつに多裏の活字に触れているように思えます。パソコンやテレビの画蔓で「読む」ことのできる活字は、むしろ増えているかもしれません。電子メールのやりとりは、ここ数年で日常生活に欠かせないものになりました。ニュースも、内容によってはウェブの方がより「新鮮」な情報源として理解されるようになりました。テレビ画蔓上に、音声とともに表示される活字(キャプション)も、ひと頃にくらべて増えてきているように感じます。

もちろんこれは、「読む」だけではなく、「書く」ことについてもいえることです。インターネット上の掲示板やチャットでは、毎日毎日、夥しい数の活字が生成されています。いまや2人にひとりが携帯電話を持ち、その3分の1程度はメールをやりとりできる機種です。携帯電話を使う際のマナーの問題は重要ですが、とにかく文字は、飛び交っています。このことは、ぼくが大学生だった頃(あるいはそれ以前の頃)と本質的にちがいます。ある調査によると、イマドキの大学生のおよそ90%がメールを送受信できる端末を、授業に持ち込んでいます。そして、そのうち53%が授業中にメールのやりとりをしていると答えています。授業時間ひとコマあたりのメールの平均着信数は、1〜4件が65%ほど。メールの内容の多くは、(もちろん?)世間話や日常会話で、授業とはまったく関係のない話題です。学生が授業中にメールをやりとりしているおかげで私語が減った(そのかわり、「静かな私語」が増えた)という指摘もあります。

いろいろな問題はあるにせよ、日常生活のなかで、文字に触れる機会は多様になりました。そのことをふまえて、「活字離れ」という言いかたをあらためて考える必要がありそうです。

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